『古川ロッパ 食べた、書いた、笑わせた! 昭和を日記にした喜劇王』河出書房新社

古川ロッパ論を寄稿したムック本『古川ロッパ 食べた、書いた、笑わせた! 昭和を日記にした喜劇王』(河出書房新社、2015年2月27日)が刊行されました。
同書は古川ロッパの文章や座談、彼について書かれたものを集めた一冊で、これで小説や文学論などの一部を除けば、ほぼ俯瞰できる内容になっている。
正確には、古川ロッパは俳優名に「古川ロッパ」、筆名は「古川緑波」を用いたので、書籍タイトルは『古川ロッパ』よりも『古川緑波』の方が相応しいような気もするが、それは一部の拘りに過ぎないだろう。

宝塚歌劇でも採用されたという演劇人の戒め「ロッパ楽屋用いろはかるた」も含まれている。

古川緑波は喜劇人としては珍しく筆が立ち、優れたエッセイを残したが、その反面、他者の代筆によるもの少なくなく、資料となる過去のエッセイ等を手渡して「あとは上手くよろしく」と万事任せて校正も見ないことがあったとされる。
当時を知る演劇関係者、実際に代筆を行ったという複数の人物に話を聞いたことがある。

とはいえ、基となる文章を提供したあたりが活字に対する緑波の真面目さでもあり、他の喜劇人は材料となりそうな話を二言、三言話して全てお任せが当たり前だったという。

そういう時代だったのだろう。

個人的に今回掲載された文章は、一点を除いて、緑波自身の筆によるものだと思う。
一つだけ、どうにも怪しいと思っている。
が、それは余程の緑波マニアや研究者だけが気になることだろう。うん。

さて、私が寄稿したのは評論の中の「ナヤマシ会から笑の王国へ」と略年譜で、評論では拙稿の他に

岸田國士「ロッパの「楽天公子」」
健太郎「緑波と映画」

が掲載されている。

岸田國士は劇作家の、あの岸田國士である。
まさかこうして岸田國士と原稿が並ぶことになろうとは、私も原健太郎氏も予想外のことである。
因みにこの三人には共通項があるのだが、それが分かる人は親しい者以外にはおるまい、と。

いずれにせよ近年の復刻によって、榎本“エノケン”健一が映像を残し、古川“ロッパ”緑波が活字を残すという状況が漸く出来上がったのは嬉しいことである。

『古川ロッパ 食べた、書いた、笑わせた! 昭和を日記にした喜劇王』河出書房新社

古川ロッパ論を寄稿したムック本『古川ロッパ 食べた、書いた、笑わせた! 昭和を日記にした喜劇王』(河出書房新社、2015年2月27日)が刊行されました。
同書は古川ロッパの文章や座談、彼について書かれたものを集めた一冊で、これで小説や文学論などの一部を除けば、ほぼ俯瞰できる内容になっている。
正確には、古川ロッパは俳優名に「古川ロッパ」、筆名は「古川緑波」を用いたので、書籍タイトルは『古川ロッパ』よりも『古川緑波』の方が相応しいような気もするが、それは一部の拘りに過ぎないだろう。

宝塚歌劇でも採用されたという演劇人の戒め「ロッパ楽屋用いろはかるた」も含まれている。

古川緑波は喜劇人としては珍しく筆が立ち、優れたエッセイを残したが、その反面、他者の代筆によるもの少なくなく、資料となる過去のエッセイ等を手渡して「あとは上手くよろしく」と万事任せて校正も見ないことがあったとされる。
当時を知る演劇関係者、実際に代筆を行ったという複数の人物に話を聞いたことがある。

とはいえ、基となる文章を提供したあたりが活字に対する緑波の真面目さでもあり、他の喜劇人は材料となりそうな話を二言、三言話して全てお任せが当たり前だったという。

そういう時代だったのだろう。

個人的に今回掲載された文章は、一点を除いて、緑波自身の筆によるものだと思う。
一つだけ、どうにも怪しいと思っている。
が、それは余程の緑波マニアや研究者だけが気になることだろう。うん。

さて、私が寄稿したのは評論の中の「ナヤマシ会から笑の王国へ」と略年譜で、評論では拙稿の他に

岸田國士「ロッパの「楽天公子」」
健太郎「緑波と映画」

が掲載されている。

岸田國士は劇作家の、あの岸田國士である。
まさかこうして岸田國士と原稿が並ぶことになろうとは、私も原健太郎氏も予想外のことである。
因みにこの三人には共通項があるのだが、それが分かる人は親しい者以外にはおるまい、と。

いずれにせよ近年の復刻によって、榎本“エノケン”健一が映像を残し、古川“ロッパ”緑波が活字を残すという状況が漸く出来上がったのは嬉しいことである。

筒井康隆『繁栄の昭和』文藝春秋――喜劇女優「高清子」

筒井康隆『繁栄の昭和』文藝春秋――喜劇女優「高清子」


表紙を見て「これは・・・!」
と思ってパラパラめくるとやっぱり「高清子(こうきよこ)」

スバラシイ装幀なので購入。
筒井康隆の本を新刊で購入したのは中学?高校?以来だと思う。

大御所は生きてる内は寝かして読む方が面白いのポリシーに反した。

電車の中で「附・高清子とその時代」だけ読む。

筒井夫人は高清子にそっくりらしい。
夫人自ら似てると認めるのだから、確かだろう。
しかも夫人はベティちゃんにも似ているとか。
ベティ・ブープ伝』はそういう理由での関心と出版だったのか。

本によれば高清子は主に戦前にエノケン劇団や映画で活躍した女優で戦後は劇団「新風俗」に出演した。
戦前、二十歳の時に同じエノケン劇団の正邦乙彦と結婚する。
正邦は後にジプシーローズを発掘して有名になる、毀誉褒貶激しい人物だ。
高は彼の正妻として、戦前戦後を正邦の母親や子どもの面倒を見ながら、とかく苦労したという。

なぜわざわざこれを書くのかというと、かれこれ15年以上前だが
私は「高清子の娘」を名乗る人物から電話を貰ったことがあるからだ。
おそらくは当時カジノ・フォーリーについて書いた論文を知っての電話だと思うが
穏やかな平日の昼に受話器を取ると、粋なり高齢の女性の声で

「初めまして、私は高清子の娘なんですが、母について何か知っていたら教えてくださいませんか?」

と早口で言われたのを覚えている。

当時、高清子につていはプログラムで名前を知る程度だった私は、咄嗟に
戦前のエノケン関係のプログラムや、戦時中のムーラン・ルージュ新宿座で名前を見かけること
映画『エノケンの魔術師』に出演していること
戦後も新風俗、池袋アヴァンギャルドという軽演劇の有力劇団に名前があるので、
軽演劇女優としての確かな信頼と一定の演技力の評価があっただろうこと
以上のような内容を、あたふたと電話口で話した。
「高清子」という変わった名前だったので、プログラムなどで見かけて印象に残っていたのが幸いだった

「ありがとう御座います。何か他に分かったら教えて下さい。」

と言われ、電話番号を教えて貰い、私は急いでバイトへと出た。。
が、結局その後も高清子についてめぼしい新情報がなかったことと
電話のせっかちなで押しの強い声を再び聞くことが何だか億劫で
とうとう連絡をしないまま今日にいたってしまった。

筒井康隆が調べている、となれば娘さんも喜ぶだろうと思い電話番号を探してみたが
当時の手帳やノートに電話番号の記載はなかった。
また日を改めて探してみるが、大掃除したり、引っ越ししたり、それ以前に整理整頓の意味が分からないし
といった生活なので、今更見つける自信がないのが反省される悔やまれる。
20代の頃は、ここまでマイナーな、忘れ去られた人々ばかりの世界に首を突っ込んでいるとは思ってなかった。

高清子について知りたい、もしかすると本を書こう、といった出来事はおそらく今後ないだろうし
少なくとも筒井康隆といった有名人が向こうから関わってくることもないと思う。
情報が集まって、評伝が出れば嬉しい。

繁栄の昭和

繁栄の昭和

公開シンポジウム 浅草オペラの音楽・舞踊・演劇

浅草オペラのシンポジウムを開催します。


基調講演:小針侑起 (浅草オペラ研究家)「大衆と共にあった浅草オペラ」
シンポジウム:
  毛利眞人(音楽ライター)「浅草オペラから昭和レヴュー時代にかけての音楽的変遷〜佐々紅華を中心として〜」
  杉山千鶴(早稲田大学教授)「芸術か?エロティシズムか?〜浅草オペラの舞踊〜」
  中野正昭(明治大学兼任講師)「常設館興行からみた浅草オペラ」

日時 2015年3月1日(日) 13:30〜16:30
会場 早稲田大学小野記念講堂(小野梓記念館 地下2階)


主催:近代日本のダンスを考える会
問い合わせ: modern.japan.dance@gmail.com

非シス人『青ひげ公の城』@サンモールスタジオ

非シス人-Narcissist-vol.22
寺山修司生誕80年『青ひげ公の城』九條今日子へ愛を込めて
新宿 サンモールスタジオ
2015年2月8日(土)(2月5日〜9日)
マチネ 14:00〜
前売4000円、当日4500円

初見の劇団。
寺山修司『青ひげ公の城』をオリジナル音楽でやるというので観に行く。

近年、よく見かけるようになった、所謂アングラ臭の少ない寺山舞台。
歌をラップにするなどアングラ的な重さ、濃さがない。
寺山(1935年12月10日 - 1983年5月4日)の生誕80周年を記念しての公演だが、
むしろ没後30年以上が経ち、寺山のアングラ的や前衛演劇的な手法から解放された作風を感じた。
幸か不幸か寺山の場合は本人が亡くなることで、現在の若い演劇人が寺山演出の影響から離れて作品を自由な解釈で舞台化できるようになっているな、と改めて思う。
時代が一周回って寺山を再発見する余地が出来ているということは、他のアングラ演劇人にない現象かもしれない。

さて
非シス人は、別にアングラ作品を専門に上演している訳ではないので勘違いかもしれないが
それにしても寺山作品には美人がよく似合う、と今回も思った。
アングラ美人というか、ある種のステロタイプの美人が実に舞台で栄える。
容姿や性格の線が濃かったり、反対に幸薄そうだったり、足して二で割ると椿鬼奴さんになるような。
今回は青ひげの七人の妻(男優が演じる二番目の妻を含む)がそうした美人なのに対し、
端役の侍女役の女優陣が――年齢の差もあるが――モモクロ的な明るさで、
アングラを意識しつつも今の小劇場的で面白かった。
舞台はビジュアルの印象が本当に重要だ。

石井光三、高勢ぎん子、河竹登志夫

コント赤信号の育ての親として知られる石井光三氏が今月6日に亡くなっていたとの報道がある。
確かこの人は若い頃に剣劇俳優だったと聞いたことがあったので、
気にしながらいくつかテレビのニュースを見ていたが、
自分が見た限りでは、そのことにふれた報道はなかった。

石井オフィスのHPを見ると、

  昭和14年 JO京都撮影所(旧東宝京都)
  昭和21年9月 東横映画京都第1期ニューフェイス東映前身)
  昭和27年4月 宝塚新芸座(昭和38年9月タレントをやめる)
  昭和38年  松竹芸能株式会社入社
  昭和51年 かしましプロダクション(東京築地)
  昭和55年 制作工房
  昭和58年 有限会社石井光三オフィス設立
  平成18年 有限会社石井光三オフィス会長就任

とある。

JO京都、東横映画ニューフェイスと、
今のところ映画史の表舞台を飾りはしなかった
いわば傍流を歩んだその経歴の興味深さもさることながら
個人的に「これは」!」と驚いたのは宝塚新芸座出身だということである。

宝塚新芸座――漫才作者・秋田実が主宰した、戦後の関西芸能界の出発点のひとつである異能集団の巣窟である。

石井光三も宝塚新芸座の関係者だったとは、これは迂闊にも知らなかった。

できれば、聞き書きをとっておきたかった
                    だが
                       ……実に残念。

石井光三夫人は、吉本新喜劇の女優、高勢ぎん子の娘。

私が毎週のようにテレビで新喜劇を見ていたのは小学生時代、昭和50年代後半で、
漫才ブームもあってか朝から晩までお笑い漬け。

高勢ぎん子といえば老け役ばかりやってた可愛いお婆ちゃんというイメージしかないのだが、
人に聞いても、彼女は早くから老け役専門だったようだ。

毎日をゲラゲラとボンヤリの往復で暮らしていたアホな子どもだった当時の私は、
思い出してみると、世の中の仕組みや人物の類型を新喜劇から学んだような気もする。

「大事なことはすべて(テレビに関しては)吉本新喜劇(と「トム&ジェリー」「独占!女の60分」「土曜ワイド劇場」、再放送のドラマ、洋画劇場その他)で学んだ」
という感じだ。

二枚目とは木村進(3代目博多淡海)のことで、格好いいとは花紀京のように飄々とした男のこと。
禿げるのはタマネギのたたりだと室谷信雄で信じ込み、
急ぐときは「は、いそがし、は、いそがし」と横歩きでアピールすべしと教えられた。
横歩きというと萩本欽一よりも谷しげるを真っ先に思い浮かべてしまう。
同じサル顔の岡八朗間寛平の間に、子どもながら、実力差とはこういうものか学んだことも。
なんとなく熟女好きで、動物園ではカバ舎を見ずにはいられない大人になったのは、間違いなく山田スミ子原哲男のおかげだ。

高勢ぎん子はよく平参平とほのぼのとした夫婦役をしていた。
子どもの時は、この二人が出て来ると何となく舞台の空気が変わるような感じがするのが不思議だったが
あれが戦後に出て来た花・岡世代と、戦前からの芝居らしい喜劇俳優の流れを汲む平・高勢との
間や芸風の違いだったのかもしれないな、と今にして思う。

もっとしっかりと見ておけばよかったな。

高勢ぎん子の父親は、戦前の喜劇俳優、高勢実乗。
ベン・ターピンみたいな鼻ひげと寄り目で「アーノね、オッサン。わしゃ、カナワンよ」と奇声を発するのがギャグ。
終戦直後の東京を半ドキュメンタリー的に撮影した映画『東京五人男』(1945年、斎藤寅次郎監督)の中で
一際異彩な、漫画以上に漫画的なキャラクター(嫌味な豪農)を演じた喜劇人だ。

高勢実乗といえば、故・河竹登志夫先生から雑談ついでに聞いた印象的な話がある。
戦時中の高勢実乗は、父・河竹繁俊所有の借家に住んでいたという。
あの「アーノね、オッサン」が住んでいるとなると、子どもながら落ち着かない。
どうしても会ってみたい、話してみたい、という気持に駆られるのも当然だ。
そこで、親の目を盗んで会いに行く

河竹:なんか、キレイな女の人と住んでるんだ。
   本当にキレイな女性。

中野:それは奥さんとか、娘さんとかではなく?

河竹:違うだろうね。
   でも本当にキレイな女性で、それも一人じゃなく入れ替わりで何人かいるの。
   「アーノね、オッサン」は女性にもてるんだ、とショックを受けた。

おどけたメイキャップの下にあったかもしれない高勢実乗のダンディな素顔や
人気者ならではの経済力など、当然、子どもには分かるはずもない。

錚々たる新劇関係者や演劇評論家と接しても何ともなかったが
こればかりは子どもながらドキドキした思い出だ、と語ってくれた。

後天的な知識や教養による物差しも大事だが、
先天的な衝動や憧れこそ忘れたくはない批評軸だな、と教えられたエピソードである。

石井光三が、戦前・戦中・戦後の関西芸能界に身を置きながら、
何を見聞きし、何を考えた結果、
俳優からマネージャーへ、それも豪腕マネージャーへと変わったのかは
実に興味深いのだが、今となっては手遅れになってしまった。

毎度の事ながら、残念なようで、
それでいて、本人が語らなかったのだから、
別にこれで良かったんだという気もする。

松竹創業120周年 
壽新春大歌舞@歌舞伎座
昼の部 11:00〜

一、祇園祭礼信仰記 金閣寺
二、蜘蛛の拍子舞 花山院空御所の場
三、一本刀土俵入

 『金閣寺』の松永大膳、今回は染五郎
 これまで幸四郎で二度観て、DVD版も幸四郎なので、比較してしまう。
比較するのは結構だろうが、親子だとその比較の仕方が、どうしても客観的に芸だけを比べるとはならないので困る。染五郎の大膳が決して悪いわけではないが、幸四郎の印象から比べるとまだ若く、迫力に乏しかった。
 勘九郎七之助も出ていたが、勘三郎のコピーのような勘九郎の芝居(声というが正しいか)の方が、正月で陽気な気分の自分には心地よかった。

で、その幸四郎の『一本刀土俵入』だが、長谷川伸作品の中でもこの舞台は、これまで個人的にその面白さがピンとこなかった。そして今回もその感想は大きくは変わらなかった。特にクライマックスで桜の木を背後に立ち回りを見せるところなど、これは絵になる場面で確かにグッと来るのだが、やはり何だか物足りない。長谷川伸の作品があまり好みではないというのもあるが、前半のややコミカルな要素を持たせた展開と後半のヤクザ物になってからの演出のギャップがどうも苦手だ。
 同じ新歌舞伎なら、夜の部の『番町皿屋敷』がここにきたら嬉しかった。

 終演後、築地方面へ出て、チェーンの某寿司屋へ行ったが、市場が開くのが翌日からということもあり、鮪以外のタネが殆どなかったのは物足りなかった。ウニ、イクラはもちろん白身、光り物、いか、たこ、貝類どれも品切れ。取り敢えず鮪尽くしで一通り食べ、次いであるもので握ってもらい、また鮪に戻り、茶碗蒸しでしめる。
 本社の指示なしに簡単に閉められないのだろうが、夜の部を見終えて来店した客は、私以上に何もないのかと思うと気の毒で仕方ない。正月からこれではどうにも寂しい。