コロナ禍と演劇――肥田博量の衛生劇

 コロナ禍関連書として、書店でスティーヴン・ジョンソン『感染地図 歴史を変えた未知の病原体』(河出文庫、2017)が平積みだったので買って読む。

 19世紀のロンドンで大流行したコレラ禍に対して、後に「疫学の父」と呼ばれるようになる医師ジョン・スノーと牧師ヘンリー・ホワイトヘッドが画期的な統計調査で感染源を突き止めた事実を扱った歴史書なのだが、本書の面白いところは、当時、細菌の存在すら知られておらず、目に見えない謎の敵だったコレラ菌を、スノーとホワイトヘッドが発見するまでの過程がミステリー小説風に描かれているところだ。著者は『ニューヨーク・タイムズ・マガジン』の人気コラムニストで、一般書としては流石の腕前というところだ。個人的には、人の集まる場所として当時のロンドンの劇場の様子、特に衛生面が詳しく書かれていて、資料的にも興味深かった。

 この本を読んでいて、真っ先に思い浮かんだのが、大正期にチフスが流行した際、「衛生劇」の看板を掲げて主に関西地方を廻った肥田博量だ。「衛生劇」とは、大正期に保険衛生課が衛生思想を普及する目的で主催し上演したもので、科学的知識を基盤とする啓蒙劇、公共福祉を目的とする公共劇の一種だ。ほぼ全国で上演されており、時期は短いながらも、国や地方公共団体が演劇を公共教育メディアとして利用した早い例となる。昭和になると厚生劇がこの種の役割を一手に引き受けるようになる。ロンドンでは、コレラ菌発見後にやはり同種の衛生劇が登場するようになった。日本のものもこれに倣って導入したものだろ。

 肥田博量は京都府保険衛生課の職員で、芝居好きが高じて自ら筆を執り、舞台に立って衛生劇を上演するようになった。たとえば『近代歌舞伎年表京都篇』には、大正7年8月の『通俗衛生連鎖劇 命(たから)』に関する次のような新聞記事がある。

 

既報の如く五日より愈市衛生連合組合主催の肥田博量一派衛生劇『命』を昼夜二回興行する事となれり。同劇は斯うした教訓劇に経験ある肥田が自作を府衛生課で校訂したもので、女魔術師天花なる華やかな人物を中心に種々の人物を活躍さしたる頗る劇的興味に富んだ狂言で観客に不知不識の間に窒扶斯菌を初め其他伝染病の恐るべきを知らしめるやうな脚色になつてをる。(「京都日出新聞」8月5日)

 

 文中の「女魔術師天花」とは奇術師の松旭斎天一の弟子だった初代・松旭斎天花がモデルだろうか(あるいは天花本人の出演?)。衛生という科学的知識の普及を目的とする劇の主人公が、女魔術師という点がいかにも大正期の芝居らしい。連鎖劇は、芝居の中に映画を組み込んだもので、アクション場面などを映画で見せ、珠来の芝居を一歩出るような演出で楽しませた。ジョルジュ・メリエスの頃から映画と奇術は相性が良く、連鎖劇でも奇術を撮影した映画や、実際に生の奇術そのものを見せていることがあった。

 衛生劇のパターンとして、一つの芝居の幕と幕の間で、劇中人物(多くは医者や衛生課の役人)が観客に向って衛生思想を説く場面を挿入することが多かった。肥田の舞台では、この説明者の役を肥田自身がやるのが常だったようだ。

 興味深いのは、肥田博量が〝肥田式強健術〟の創始者である肥田春充(明治16・1883~昭和31・1956)の親戚だということだ。山梨県の医師川合立玄の五男だった春充は、西洋のウェイトトレーニングに東洋の丹田鍛錬を取り入れた独自の健康法〝肥田式強健術〟を編みだし、明治44年に著書『実験 簡易強健術』(文栄閣)として発表、同書はたちまち大ベストセラーとなり、春充は各地の官公庁や学校での講演会に招かれた。〝肥田式強健術〟は科学的なウェイトトレーニングと精神的な気合(丹田は「気の田」の意味)が組み合わさった明治期らしい和魂洋才の産物だが、これが後の日本の精神論的な健康法の基礎の一つとなる。春充は大正6年に肥田家の婿養子になるが、私が肥田博量の名前を知っていたのも、この春充関連でだ。

 博量と春充の間に何らかの影響関係があったかは不明だが、強健術ブームの立役者と、自ら一風変わった衛生劇の筆を執る役人の組み合わせは、明治・大正期の健康思想の振幅の広さを象徴するのようで面白い。

 通俗衛生連鎖劇は、芝居と映画と衛生思想の組み合わせだが、ここでの芝居は、歌舞伎の旧派に替わって明治の現代劇として登場した新派だ。当時の新派は一部から〈新興演劇〉と呼ばれることもあった。映画は近代科学が生んだ最新の大衆娯楽、衛生思想は科学的研究にもとづく知識だが、こうした科学との親和性の高さが、新派が〈新興演劇〉と呼ばれた理由の一つだろう。

 

衛生劇については、国会図書館デジタルアーカイブ

  • 額田六福『衛生劇脚本 二家庭』(岡山県私立衛生会、大正5年)
  • 岩尾机水『衛生劇 世の赤裸』(新橋講、大正6年

など、幾つかが読めるので、後日つづきを投稿してみたい。

 

 額田六福は本当に色々なジャンルに手を付けていて感心する。

 

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