第1回音楽本大賞・個人賞・受賞のご報告

この度、『ローシー・オペラと浅草オペラ――大正期翻訳オペラの興行・上演・演劇性』(森話社、2022)が第1回音楽本大賞・個人賞(輪島裕介選)を受賞いたしました。

 

音楽本大賞は、音楽評論家と読者が中心となりクラウドファンディングで設立された賞で、公式HPには次のように設立理由が記されています。

 

音楽の聴き方や作り方を変えてくれるようなすぐれた音楽本の存在を、もっと多くの読者に、もっとたくさんの人に届けたい。そして書店の音楽本コーナーを盛り上げたい、そのために「音楽本大賞」をスタートします。

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こうした音楽好き本好きが主宰する賞の第1回受賞者のひとりに名を連ねることができたのは実に光栄なことです。

拙著を選んでくださった輪島先生および関係者の皆様、ありがとうございます。

 

選評の文章が格好良くて、特に「演じられる音楽」はこのまま本の帯に使用したいフレーズです。

 

「国家の威信を背負った19世紀的な高級文化としてのオペラを求めた日本人と、20世紀の大衆消費社会に即したプロの芸人・ローシー。ボタンの掛け違いから始まった曖昧な日本の歌劇。「演じられる音楽」についての、演劇学からの鋭い挑戦。」

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令和4年度(第73回)芸術選奨文部科学大臣賞(評論等部門)受賞のご報告

この度、拙著『ローシー・オペラと浅草オペラ――大正期翻訳オペラの興行・上演・演劇性――』(森話社、2022年)で、令和4年度(第73回)芸術選奨文部科学大臣賞(評論等部門)を受賞しました。これまで研究を応援していただいた皆様ありがとうございます。

 

贈賞理由を読むと、本書の意図が的確にまとめられており、特に「本書には大正の独自の輝きが宿っている」との言葉には、大学院時代に指導教授の故・曽田秀彦先生主宰「大正演劇研究会」で勉強した日々が思い出されて、素直に嬉しいですね。多謝。

 

芸術選奨贈賞理由

https://www.bunka.go.jp/koho_hodo_oshirase/hodohappyo/pdf/93842101_02.pdf

 

 

コロナ禍と演劇――肥田博量の衛生劇

 コロナ禍関連書として、書店でスティーヴン・ジョンソン『感染地図 歴史を変えた未知の病原体』(河出文庫、2017)が平積みだったので買って読む。

 19世紀のロンドンで大流行したコレラ禍に対して、後に「疫学の父」と呼ばれるようになる医師ジョン・スノーと牧師ヘンリー・ホワイトヘッドが画期的な統計調査で感染源を突き止めた事実を扱った歴史書なのだが、本書の面白いところは、当時、細菌の存在すら知られておらず、目に見えない謎の敵だったコレラ菌を、スノーとホワイトヘッドが発見するまでの過程がミステリー小説風に描かれているところだ。著者は『ニューヨーク・タイムズ・マガジン』の人気コラムニストで、一般書としては流石の腕前というところだ。個人的には、人の集まる場所として当時のロンドンの劇場の様子、特に衛生面が詳しく書かれていて、資料的にも興味深かった。

 この本を読んでいて、真っ先に思い浮かんだのが、大正期にチフスが流行した際、「衛生劇」の看板を掲げて主に関西地方を廻った肥田博量だ。「衛生劇」とは、大正期に保険衛生課が衛生思想を普及する目的で主催し上演したもので、科学的知識を基盤とする啓蒙劇、公共福祉を目的とする公共劇の一種だ。ほぼ全国で上演されており、時期は短いながらも、国や地方公共団体が演劇を公共教育メディアとして利用した早い例となる。昭和になると厚生劇がこの種の役割を一手に引き受けるようになる。ロンドンでは、コレラ菌発見後にやはり同種の衛生劇が登場するようになった。日本のものもこれに倣って導入したものだろ。

 肥田博量は京都府保険衛生課の職員で、芝居好きが高じて自ら筆を執り、舞台に立って衛生劇を上演するようになった。たとえば『近代歌舞伎年表京都篇』には、大正7年8月の『通俗衛生連鎖劇 命(たから)』に関する次のような新聞記事がある。

 

既報の如く五日より愈市衛生連合組合主催の肥田博量一派衛生劇『命』を昼夜二回興行する事となれり。同劇は斯うした教訓劇に経験ある肥田が自作を府衛生課で校訂したもので、女魔術師天花なる華やかな人物を中心に種々の人物を活躍さしたる頗る劇的興味に富んだ狂言で観客に不知不識の間に窒扶斯菌を初め其他伝染病の恐るべきを知らしめるやうな脚色になつてをる。(「京都日出新聞」8月5日)

 

 文中の「女魔術師天花」とは奇術師の松旭斎天一の弟子だった初代・松旭斎天花がモデルだろうか(あるいは天花本人の出演?)。衛生という科学的知識の普及を目的とする劇の主人公が、女魔術師という点がいかにも大正期の芝居らしい。連鎖劇は、芝居の中に映画を組み込んだもので、アクション場面などを映画で見せ、珠来の芝居を一歩出るような演出で楽しませた。ジョルジュ・メリエスの頃から映画と奇術は相性が良く、連鎖劇でも奇術を撮影した映画や、実際に生の奇術そのものを見せていることがあった。

 衛生劇のパターンとして、一つの芝居の幕と幕の間で、劇中人物(多くは医者や衛生課の役人)が観客に向って衛生思想を説く場面を挿入することが多かった。肥田の舞台では、この説明者の役を肥田自身がやるのが常だったようだ。

 興味深いのは、肥田博量が〝肥田式強健術〟の創始者である肥田春充(明治16・1883~昭和31・1956)の親戚だということだ。山梨県の医師川合立玄の五男だった春充は、西洋のウェイトトレーニングに東洋の丹田鍛錬を取り入れた独自の健康法〝肥田式強健術〟を編みだし、明治44年に著書『実験 簡易強健術』(文栄閣)として発表、同書はたちまち大ベストセラーとなり、春充は各地の官公庁や学校での講演会に招かれた。〝肥田式強健術〟は科学的なウェイトトレーニングと精神的な気合(丹田は「気の田」の意味)が組み合わさった明治期らしい和魂洋才の産物だが、これが後の日本の精神論的な健康法の基礎の一つとなる。春充は大正6年に肥田家の婿養子になるが、私が肥田博量の名前を知っていたのも、この春充関連でだ。

 博量と春充の間に何らかの影響関係があったかは不明だが、強健術ブームの立役者と、自ら一風変わった衛生劇の筆を執る役人の組み合わせは、明治・大正期の健康思想の振幅の広さを象徴するのようで面白い。

 通俗衛生連鎖劇は、芝居と映画と衛生思想の組み合わせだが、ここでの芝居は、歌舞伎の旧派に替わって明治の現代劇として登場した新派だ。当時の新派は一部から〈新興演劇〉と呼ばれることもあった。映画は近代科学が生んだ最新の大衆娯楽、衛生思想は科学的研究にもとづく知識だが、こうした科学との親和性の高さが、新派が〈新興演劇〉と呼ばれた理由の一つだろう。

 

衛生劇については、国会図書館デジタルアーカイブ

  • 額田六福『衛生劇脚本 二家庭』(岡山県私立衛生会、大正5年)
  • 岩尾机水『衛生劇 世の赤裸』(新橋講、大正6年

など、幾つかが読めるので、後日つづきを投稿してみたい。

 

 額田六福は本当に色々なジャンルに手を付けていて感心する。

 

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清水邦夫

劇作家の清水邦夫氏の訃報を聞く。おそらくマスコミの訃報記事では、蜷川幸雄とのコンビで知られる櫻社時代のエピソードを中心に取り上げるのだろうが、劇作家としての清水邦夫の真価が発揮されたのは、蜷川と別れた後の、木冬社の『楽屋』や劇団民藝に書き下ろした『エレジー 父の夢は舞う』といった中年期以降の作品にあると思っている。特に宇野重吉演出作品は、もっと評価されて良いだろう。加えて、青年期の櫻社時代から中年壮年期までコンスタントに質の高い作品を発表した、その作家としての厚みも注目されて良いはずだ。

 

今年の岸田戯曲賞は「該当作品なし」だったが、1974年の第18回は清水邦夫『ぼくらが非情の大河をくだるとき』、つかこうへい『熱海殺人事件』のダブル受賞だった。この時、清水は38歳、つかは29歳で、作風の違う二人が同時に受賞することで小劇場シーンの転換期を象徴しているのが興味深い。昨今は、劇構造ではなく物語の力で魅せる劇作家が少なくなっていただけに、追悼での清水作品の再演を希望したい。

 

映画脚本家としても『あらかじめ失われた恋人たちよ』『竜馬暗殺』などのATGの名作を手掛けているが、作品の知名度に比べて、映画脚本家としての清水邦夫はあまり知られてないように思う。どちらかといえば、俳優・蜷川幸雄の下手な演技が見られる『幸福号出帆』や金田一シリーズの中でも評価が微妙な『悪霊島』などの迷作の方が有名だろう。『悪霊島』は、戯曲では時代性を巧みに取り入れて詩情豊かに描く清水が、映画では失敗(『竜馬暗殺』があるので、映画が合わなかった訳ではないだろう。『悪霊島』の微妙な感じは、どちらかと言えば篠田正浩監督の趣味か?)したのが興味深い。独得の詩的な題名もそうだが、清水邦夫は、映画のリアリズムより、舞台の情緒の人だったのだろう。

 

清水氏については、演劇博物館の助手時代に『清水邦夫と木冬社』展を担当したことがあるので、後日、改めて投稿してみたい。

明治大正期の東北地方の大衆演劇(メモ)

 明治大正期の田舎芝居、所謂「ドサ廻り」を調べているが、そのメモ。西日本に比べて東日本、特に東北地方の資料が思った以上に少ない。中央で発行されていた雑誌に情報が載らないのは仕方ないが、地域の年史や新聞を見ても、情報は限られているようだ。

 とりあえず基本的な劇場を把握する上では、『歌舞伎』大正2(1913)年2月号掲載の「各地の春芝居」が参考になる。同記事では北海道から九州まで、さらに大連、旅順を含めた40都市82劇場の新春興行(大正2年1月)が列記されており、東北は次の6都市9劇場が掲載されている。

 

山形

 旭座:花房太郎一座

福島

 新開座:松本錦升一座

仙台(宮城)

 仙台座:松本虎蔵、中村歌女之丞、市川照蔵一座

 森徳座:新派峯松一座

青森

 朝日座:市川花幸、澤村蓮枝、市川新寿次

盛岡(岩手)

 藤澤座:片山勇一一座

 内丸座:松永一座

秋田

 凱旋座:西尾雲井一座

 秋田座:成功会新派片山一座

 

  それぞれ県庁所在地に1~2の劇場があったことがわかる。

 各劇場の様子だが、山形の「旭座」については、『歌舞伎』明治37(1904)年5月号掲載の、うし生「山形の芝居」にこう記されている。

 

 今回山形市にて見たるは、当市唯一の旭座にて、坂東太雀一座の芝居なるが、午後三時開の十二時はねにて、表看板には三十六段返しと記載したる仇討物があり。木戸は八銭にて土間座布団代共に八銭、東桟敷には当市の芸妓連が十名ほど、毛布を敷きて見物し居り、西桟敷は兵士連の無料の場なりし。入りは中の上にて、俳優は皆田舎的達者揃なり。一昨夏見たる時は、舞台は凡て丸真のランプ十数個を灯したるが、流石に今回は電灯を用いありたり。幕の間には十二三歳の小供が尤も小穢き草履を穿ち、渡りを飛び廻りて、「菎蒻は如何」と所謂「おでん」を客の鼻先へ突きつけるなど妙なり。その他「天ぷら」なぞ持ち来る子供もありて、凡て煙の出て居るなど中々にも面白し。道具は柳盛座の少し下等にて、廻舞台なるも可笑しく、兎に角一幕半ほど見物して帰宿したり。

 

 文中の「柳盛座」は浅草にあった芝居小屋のことだと思われる。柳盛座は「下谷柳盛座」「向柳原柳盛座」とも呼ばれた小芝居の劇場で、若い頃の伊藤晴雨が出入りしたり、森鷗外の『雁』にも僅かだが記述がある。おそらく著者のうし生は東京在住の人なのだろう。

 旭座は山形市で唯一の劇場とあるが、これは他県も似たような状況で、東京と関西を除けば県庁所在地や主要都市に1~2ある程度だ。東桟敷の芸妓は所謂「やまがた舞子」、西桟敷の兵士は山形城に駐屯した歩兵第三十二連隊のことだろう。

 一昨夏、つまり明治35(1902)年夏の時点では劇場の照明はランプだったが、明治37(1904)年春には電気照明に変わっていたとある。劇場は火災が多かったので、どの国でも電力化が早くに実現している。たとえばロンドンで最初に電灯を導入した公共施設は、1881(明治14)年開場のサヴォイ劇場だった。ランプと異なり電力化は大規模なインフラ整備が必要なので、その地域の演劇需要の度合いを知る目安になる。米沢市役所のHPによると、山形県内で初めて発電を行ったのは米沢市の滝の沢(現在の小野川)発電所だった。

 

 日本の電気事業は、明治20年に東京電灯が日本橋の火力発電所で電灯

を供給したのがはじまりで、東北地方では明治27年に仙台電灯、28年に福島電灯が開業しました。
 米沢でも、この文明の灯やエネルギーを機織(はたおり)などに利用ようと、明治29年に綱島哲・長清水・酒井寛助など、機業家が中心となって水力発電事業を計画し、調査が始められました。
 明治30年9月、米沢水力電気株式会社の設立発起人会を開いて出資者を募集し、翌31年2月には資本金12万の内半分の6万円の払い込みを済ませ創立総会を開きました。この後、小野川から米沢市内への電柱工事が始められる一方、発電所の設備等も発注。タービン(水車)は米国のレッフェル社製で160馬力、発電機はドイツのアルゲマイネ社製、出力100キロワットでした。
 発電機(6.5トン)は船で浦賀に到着し、汽車で福島駅まで輸送され、そこからは馬や犬ぞりなどを用い苦労して栗子峠を越え、小野川では小学校の生徒をはじめ全村民の手伝いによって滝の沢まで運ばれました。
 明治31年12月11日、工事も完了し、柳町の事務所で開業式を行い、午後四時には会場を米沢座に移し、県内初の送電で舞台の電灯が点されました。*1

 

 サヴォイ劇場同様に、山形県でも最初に電灯をともした公共施設は劇場の米沢座だった。米沢座の電力化が明治31(1898)年、旭座がその約5年後なので、山形県内の演劇需要は山形市よりも米沢市の方が高かったのだろう。

 米沢市では、米沢座の他にも大正8(1919)年に松岬劇場が開場している。 松岬劇場は、プロレタリア演劇史上では、昭和5(1930)年に左翼劇団の黎明座が旗揚げ公演を行ったことで知られる。東北を代表した左翼劇団のひとつである黎明座は、旗揚げ公演の直後に治安維持法違反で関係者が検挙された(米沢共産党事件)。

 また昭和になると、松岬劇場はちょっと珍しい喜劇や演芸の興行が度々行われている。たとえば「曽我廼家喜劇」の看板で東北・北海道を盛んに巡業した「曽我廼家勝蝶一座」「曽我廼家祐成一座」の巡業の要が松岬劇場だった。勝蝶も祐成も大阪や浅草ではほとんど名前を見かけることはなく、曽我廼家一門での位置づけも判然としないが、どちらも東北・北海道では知られた存在だったようで、特に勝蝶は戦時期の度重なる慰問興行のお陰で、北海道では「曽我廼家と言えば勝蝶」と見なされていた。

 戦後、松岬劇場は映画館となり「セントラル劇場」「国際劇場」「シネマ旭」と名を変え、昭和42(1967)年に閉館した。

 

*1:「城下町ふらり歴史探訪」滝の沢発電所/米沢市役所

Tom & Jerry: Golden Collection, Vol. 1 [Blu-ray]

品切れ状態だった『トムとジェリー』北米版Blu-rayが再販されたので購入。それを見たメモ。

 

第1作「邦題:上には上がある)」1940年2月10日公開。

プロデューサーとしてクレジットされるのは Rudolf Ising 。アイジングはディズニー・プロで『兎のオズワルド Oswld the lucky rabbit』の制作にも参加したアニメーター兼プロデューサー。ただし彼の名前がクレジットされるのはこの第1作のみ。

 

アイジングは、テレビ放送『トムとジェリー』の真ん中の作品のひとつ『クマのバーニー Barney bear』のアニメーターでもある。バーニーはテックス・エイヴリーの作品に似た雰囲気があるが、Tex Avery: The MGM Years, 1942-1955 に同作の名前がないので未参加か? テレビでのバーニーの声は2代目・三遊亭金翁(4代目・金馬)

 

原題をそのまま訳すと「猫君、ブーツで蹴られる」で、オープニング・タイトルのイラストでもそれが示されている。よく見るとジェリーがちゃんとブーツを履いている。また "get the boot" はスラングで「解雇」の意味があるので、それがトムが家を追い出されるオチにもつながっている。

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"And when I says out, Jasper, I means out. O-U-W-T, out !"

黒人の家政婦 Mammy Two Shoes は黒人訛に加え、"out" を "ouwt" と発音する南部訛があるので、トム達が住むのはおそらく南部。以前発売された国内版DVDでは、先の台詞は "O-U-T" となっている。『トムとジェリー』をはじめとするカートゥーンは劇場短編映画として制作され、後にテレビ放送されるようになると、人種差別的な表現が修正されるのが常なので、これも同じ理由で再録音されたものか?

 

MGMの首脳陣はギャグ満載の第1作をあまり評価しなかったが、第1作がアカデミー賞短編アニメ部門にノミネートされたことでシリーズ化を決定した。

 

第1作では "Tom" (Thomas) の名前は "Jasper"、"Jerry" は "Jinx" 。トムとジェリーになるのは第2作からで、アニメーターのジョン・カー John Carr がイギリスのクリスマス・カクテル "Tom and Jerry" に因んで名づけた。

 

梅ヶ丘Boxで「『楽屋』フェスティバル」を観る。

清水邦夫の『楽屋〜流れ去るものはやがてなつかしき〜』は、清水の代表作というだけでなく、様々な劇団による上演数の多さでは現代演劇随一だろう。
個人的にも木冬社(1996)、新宿梁山泊(1998)、兵庫県立ピッコロ劇団(秋浜悟史追悼、2005)、シス・カンパニー生瀬勝久演出、2009)とそこそこの数を観ている。
今回も18劇団が参加し、同じ劇場、同じ舞台、ほぼ同じ装置と照明という条件で女優と演出の競演を繰り広げている。
主宰の燐光群の「燐光群アトリエの会」版は南谷朝子の演出で、プロンプター止まりのまま芽が出なかった女優Aに樋尾麻衣子、女優Bに松岡洋子を配役しコミカルな味わいを出す一方で、ベテラン女優Cに中山マリを置くことで女優として生きる者の業を、新人女優Dに宗像祥子を置き若さ持つ無邪気さと狂気の紙一重をそれぞれ巧みに対比させていた。
ある意味、オーソドックスな『楽屋』に仕上げていた。
女優CとDは別キャストもあり、女優Cを川中健次郎が演じる回が観られなかったのが残念に思われた。
これに対して清水邦夫主宰の木冬社の流れを汲む「演劇企画火のように水のように」は女優Aに越前屋加代、女優Bに新井理恵、女優Dに関谷道子ら木冬社のメンバーを、女優Cに文学座八十川真由野を配役、演出にニナガワ・スタジオ出身の菊地一浩を置き、清水邦夫演出とは異なる静的な『楽屋』に仕上がっていた。
特に木冬社では女優Cを清水邦夫夫人の松本典子が演じ“なるほど一番怖いのは、女優になれなかった幽霊や狂人の執念ではなく、そこに陥ることなく舞台に立ち続ける女優の妄念にも似た業だな”と納得させられたが、
今回は燐光群アトリエの会版が、女優として線の太い中山マリ(文学座から三十人会、自由劇場、ザ・スーパーカムパニィという経歴は彼女ならではだろう)に女優Cを演じさせること(台詞でもふれられるが、還暦を過ぎて『かもめ』のニーナを演じる厚かましい女優だ)で清水・松本が意図しただろう『楽屋』を踏襲しようとしていたのに対し、木冬社の後継である演劇企画火のように水のようにでは、舞台女優としてはやや線の細い八十川を配役することで意識的に松本典子の記憶を払拭しようとするかのような印象があったのが興味深かった。
オリジナルや燐光群アトリエの会では女優Cが好む酒がブランデーで、凶行に及ぶ際の凶器がビール瓶だったのが、演劇企画火のように水のようにではワインとペリエに変わっていたのも、両者の女優像の変化が表れていて面白かった。

18劇団の通し券が10,000円と格安で出ていたが、今の学生にはこれでも高額で、できれば半分の9劇団5,000円通し券の方が学生等若い観客の集客が期待できたように気がした。