明治大正期の東北地方の大衆演劇(メモ)

 明治大正期の田舎芝居、所謂「ドサ廻り」を調べているが、そのメモ。西日本に比べて東日本、特に東北地方の資料が思った以上に少ない。中央で発行されていた雑誌に情報が載らないのは仕方ないが、地域の年史や新聞を見ても、情報は限られているようだ。

 とりあえず基本的な劇場を把握する上では、『歌舞伎』大正2(1913)年2月号掲載の「各地の春芝居」が参考になる。同記事では北海道から九州まで、さらに大連、旅順を含めた40都市82劇場の新春興行(大正2年1月)が列記されており、東北は次の6都市9劇場が掲載されている。

 

山形

 旭座:花房太郎一座

福島

 新開座:松本錦升一座

仙台(宮城)

 仙台座:松本虎蔵、中村歌女之丞、市川照蔵一座

 森徳座:新派峯松一座

青森

 朝日座:市川花幸、澤村蓮枝、市川新寿次

盛岡(岩手)

 藤澤座:片山勇一一座

 内丸座:松永一座

秋田

 凱旋座:西尾雲井一座

 秋田座:成功会新派片山一座

 

  それぞれ県庁所在地に1~2の劇場があったことがわかる。

 各劇場の様子だが、山形の「旭座」については、『歌舞伎』明治37(1904)年5月号掲載の、うし生「山形の芝居」にこう記されている。

 

 今回山形市にて見たるは、当市唯一の旭座にて、坂東太雀一座の芝居なるが、午後三時開の十二時はねにて、表看板には三十六段返しと記載したる仇討物があり。木戸は八銭にて土間座布団代共に八銭、東桟敷には当市の芸妓連が十名ほど、毛布を敷きて見物し居り、西桟敷は兵士連の無料の場なりし。入りは中の上にて、俳優は皆田舎的達者揃なり。一昨夏見たる時は、舞台は凡て丸真のランプ十数個を灯したるが、流石に今回は電灯を用いありたり。幕の間には十二三歳の小供が尤も小穢き草履を穿ち、渡りを飛び廻りて、「菎蒻は如何」と所謂「おでん」を客の鼻先へ突きつけるなど妙なり。その他「天ぷら」なぞ持ち来る子供もありて、凡て煙の出て居るなど中々にも面白し。道具は柳盛座の少し下等にて、廻舞台なるも可笑しく、兎に角一幕半ほど見物して帰宿したり。

 

 文中の「柳盛座」は浅草にあった芝居小屋のことだと思われる。柳盛座は「下谷柳盛座」「向柳原柳盛座」とも呼ばれた小芝居の劇場で、若い頃の伊藤晴雨が出入りしたり、森鷗外の『雁』にも僅かだが記述がある。おそらく著者のうし生は東京在住の人なのだろう。

 旭座は山形市で唯一の劇場とあるが、これは他県も似たような状況で、東京と関西を除けば県庁所在地や主要都市に1~2ある程度だ。東桟敷の芸妓は所謂「やまがた舞子」、西桟敷の兵士は山形城に駐屯した歩兵第三十二連隊のことだろう。

 一昨夏、つまり明治35(1902)年夏の時点では劇場の照明はランプだったが、明治37(1904)年春には電気照明に変わっていたとある。劇場は火災が多かったので、どの国でも電力化が早くに実現している。たとえばロンドンで最初に電灯を導入した公共施設は、1881(明治14)年開場のサヴォイ劇場だった。ランプと異なり電力化は大規模なインフラ整備が必要なので、その地域の演劇需要の度合いを知る目安になる。米沢市役所のHPによると、山形県内で初めて発電を行ったのは米沢市の滝の沢(現在の小野川)発電所だった。

 

 日本の電気事業は、明治20年に東京電灯が日本橋の火力発電所で電灯

を供給したのがはじまりで、東北地方では明治27年に仙台電灯、28年に福島電灯が開業しました。
 米沢でも、この文明の灯やエネルギーを機織(はたおり)などに利用ようと、明治29年に綱島哲・長清水・酒井寛助など、機業家が中心となって水力発電事業を計画し、調査が始められました。
 明治30年9月、米沢水力電気株式会社の設立発起人会を開いて出資者を募集し、翌31年2月には資本金12万の内半分の6万円の払い込みを済ませ創立総会を開きました。この後、小野川から米沢市内への電柱工事が始められる一方、発電所の設備等も発注。タービン(水車)は米国のレッフェル社製で160馬力、発電機はドイツのアルゲマイネ社製、出力100キロワットでした。
 発電機(6.5トン)は船で浦賀に到着し、汽車で福島駅まで輸送され、そこからは馬や犬ぞりなどを用い苦労して栗子峠を越え、小野川では小学校の生徒をはじめ全村民の手伝いによって滝の沢まで運ばれました。
 明治31年12月11日、工事も完了し、柳町の事務所で開業式を行い、午後四時には会場を米沢座に移し、県内初の送電で舞台の電灯が点されました。*1

 

 サヴォイ劇場同様に、山形県でも最初に電灯をともした公共施設は劇場の米沢座だった。米沢座の電力化が明治31(1898)年、旭座がその約5年後なので、山形県内の演劇需要は山形市よりも米沢市の方が高かったのだろう。

 米沢市では、米沢座の他にも大正8(1919)年に松岬劇場が開場している。 松岬劇場は、プロレタリア演劇史上では、昭和5(1930)年に左翼劇団の黎明座が旗揚げ公演を行ったことで知られる。東北を代表した左翼劇団のひとつである黎明座は、旗揚げ公演の直後に治安維持法違反で関係者が検挙された(米沢共産党事件)。

 また昭和になると、松岬劇場はちょっと珍しい喜劇や演芸の興行が度々行われている。たとえば「曽我廼家喜劇」の看板で東北・北海道を盛んに巡業した「曽我廼家勝蝶一座」「曽我廼家祐成一座」の巡業の要が松岬劇場だった。勝蝶も祐成も大阪や浅草ではほとんど名前を見かけることはなく、曽我廼家一門での位置づけも判然としないが、どちらも東北・北海道では知られた存在だったようで、特に勝蝶は戦時期の度重なる慰問興行のお陰で、北海道では「曽我廼家と言えば勝蝶」と見なされていた。

 戦後、松岬劇場は映画館となり「セントラル劇場」「国際劇場」「シネマ旭」と名を変え、昭和42(1967)年に閉館した。

 

*1:「城下町ふらり歴史探訪」滝の沢発電所/米沢市役所