石井光三、高勢ぎん子、河竹登志夫

コント赤信号の育ての親として知られる石井光三氏が今月6日に亡くなっていたとの報道がある。
確かこの人は若い頃に剣劇俳優だったと聞いたことがあったので、
気にしながらいくつかテレビのニュースを見ていたが、
自分が見た限りでは、そのことにふれた報道はなかった。

石井オフィスのHPを見ると、

  昭和14年 JO京都撮影所(旧東宝京都)
  昭和21年9月 東横映画京都第1期ニューフェイス東映前身)
  昭和27年4月 宝塚新芸座(昭和38年9月タレントをやめる)
  昭和38年  松竹芸能株式会社入社
  昭和51年 かしましプロダクション(東京築地)
  昭和55年 制作工房
  昭和58年 有限会社石井光三オフィス設立
  平成18年 有限会社石井光三オフィス会長就任

とある。

JO京都、東横映画ニューフェイスと、
今のところ映画史の表舞台を飾りはしなかった
いわば傍流を歩んだその経歴の興味深さもさることながら
個人的に「これは」!」と驚いたのは宝塚新芸座出身だということである。

宝塚新芸座――漫才作者・秋田実が主宰した、戦後の関西芸能界の出発点のひとつである異能集団の巣窟である。

石井光三も宝塚新芸座の関係者だったとは、これは迂闊にも知らなかった。

できれば、聞き書きをとっておきたかった
                    だが
                       ……実に残念。

石井光三夫人は、吉本新喜劇の女優、高勢ぎん子の娘。

私が毎週のようにテレビで新喜劇を見ていたのは小学生時代、昭和50年代後半で、
漫才ブームもあってか朝から晩までお笑い漬け。

高勢ぎん子といえば老け役ばかりやってた可愛いお婆ちゃんというイメージしかないのだが、
人に聞いても、彼女は早くから老け役専門だったようだ。

毎日をゲラゲラとボンヤリの往復で暮らしていたアホな子どもだった当時の私は、
思い出してみると、世の中の仕組みや人物の類型を新喜劇から学んだような気もする。

「大事なことはすべて(テレビに関しては)吉本新喜劇(と「トム&ジェリー」「独占!女の60分」「土曜ワイド劇場」、再放送のドラマ、洋画劇場その他)で学んだ」
という感じだ。

二枚目とは木村進(3代目博多淡海)のことで、格好いいとは花紀京のように飄々とした男のこと。
禿げるのはタマネギのたたりだと室谷信雄で信じ込み、
急ぐときは「は、いそがし、は、いそがし」と横歩きでアピールすべしと教えられた。
横歩きというと萩本欽一よりも谷しげるを真っ先に思い浮かべてしまう。
同じサル顔の岡八朗間寛平の間に、子どもながら、実力差とはこういうものか学んだことも。
なんとなく熟女好きで、動物園ではカバ舎を見ずにはいられない大人になったのは、間違いなく山田スミ子原哲男のおかげだ。

高勢ぎん子はよく平参平とほのぼのとした夫婦役をしていた。
子どもの時は、この二人が出て来ると何となく舞台の空気が変わるような感じがするのが不思議だったが
あれが戦後に出て来た花・岡世代と、戦前からの芝居らしい喜劇俳優の流れを汲む平・高勢との
間や芸風の違いだったのかもしれないな、と今にして思う。

もっとしっかりと見ておけばよかったな。

高勢ぎん子の父親は、戦前の喜劇俳優、高勢実乗。
ベン・ターピンみたいな鼻ひげと寄り目で「アーノね、オッサン。わしゃ、カナワンよ」と奇声を発するのがギャグ。
終戦直後の東京を半ドキュメンタリー的に撮影した映画『東京五人男』(1945年、斎藤寅次郎監督)の中で
一際異彩な、漫画以上に漫画的なキャラクター(嫌味な豪農)を演じた喜劇人だ。

高勢実乗といえば、故・河竹登志夫先生から雑談ついでに聞いた印象的な話がある。
戦時中の高勢実乗は、父・河竹繁俊所有の借家に住んでいたという。
あの「アーノね、オッサン」が住んでいるとなると、子どもながら落ち着かない。
どうしても会ってみたい、話してみたい、という気持に駆られるのも当然だ。
そこで、親の目を盗んで会いに行く

河竹:なんか、キレイな女の人と住んでるんだ。
   本当にキレイな女性。

中野:それは奥さんとか、娘さんとかではなく?

河竹:違うだろうね。
   でも本当にキレイな女性で、それも一人じゃなく入れ替わりで何人かいるの。
   「アーノね、オッサン」は女性にもてるんだ、とショックを受けた。

おどけたメイキャップの下にあったかもしれない高勢実乗のダンディな素顔や
人気者ならではの経済力など、当然、子どもには分かるはずもない。

錚々たる新劇関係者や演劇評論家と接しても何ともなかったが
こればかりは子どもながらドキドキした思い出だ、と語ってくれた。

後天的な知識や教養による物差しも大事だが、
先天的な衝動や憧れこそ忘れたくはない批評軸だな、と教えられたエピソードである。

石井光三が、戦前・戦中・戦後の関西芸能界に身を置きながら、
何を見聞きし、何を考えた結果、
俳優からマネージャーへ、それも豪腕マネージャーへと変わったのかは
実に興味深いのだが、今となっては手遅れになってしまった。

毎度の事ながら、残念なようで、
それでいて、本人が語らなかったのだから、
別にこれで良かったんだという気もする。