舞踊家・小森敏を知る

「近代日本のダンスを考える会」主催の公開シンポジウムに出席する。

舞踊家・小森敏(1887-1951)を知る』
2013年8月6日 13:30〜16:10
新宿区角筈区民ホール

司会進行:國吉和子

第1部:人を知る
茂木秀夫「小森敏のパリ時代とパリの日本人事情」
藤井利子「蘇る敏像は、いつも穏やかな紳士、楽しい時の破顔の童子
杉山千鶴「歌手・俳優・ダンサーの帝劇時代」

第2部:舞踊を知る
解説:藤井利子「年を重ねて今、敏ダンスの渋味を楽しむ」
実演「寺院の庭」(A・ケテルビー作曲「中国寺院の庭にて」)
    出演:海保文江、高橋純
  「ジプシーの踊り」(ブラームス作曲「ハンガリー舞曲」第6番)
    出演:田嶋春佳、藤井彩加

第3部:ディスカッション

 舞踊家・小森敏は、同時代の伊藤道郎、石井漠、高田雅夫らに比べ、人物像も舞踊もその輪郭が未だはっきりとしない。1917から1936年まで――その内1922年から1936年まではパリ――という19年に渡る欧米生活も当時の日本の舞踊家としてはかなり特殊だ。この間、小森は折りからのジャポニズムの波に乗って日本舞踊の指導者として生計を立てていたという。
 今回のシンポジウムは、最初の杉山発表(プログラムとは異なり最初にあった)が舞踊家以前の帝劇時代の小森の初期活動を学術的な視点を踏まえた日本近代舞踊研究の方法論的問題点を含めて説き、次いで茂木発表が小森の外国時代、特にパリに焦点を当てながら、最も不明部分の多い小森の創作時代を概観してみせた。個人的に得るところの多かったのは三番目、直系のお弟子さんである藤井公夫人で自身も小森の舞踊思想を受け継ぐ藤井利子の話だった。伊藤も石井も高田も、いや宝塚歌劇団の教師だった岸田辰彌、楳本陸平はじめ20世紀前半の多くの舞踊家にとって一番の問題は〈東西舞踊の融合〉といった身体論的な問題だった。小森敏も最初に訪れたアメリカで白人種との体格差を実感し、欧米滞在中に体得しようとしていた〈洋舞〉に一種の挫折を味わう。しかし、藤井利子の言葉に従えば、小森はダンスが殊更「技術」を重視することを嫌い、自らは「身体」の問題に捕らわれず、その背後にある東西の「精神性」を問題にしていたという。つまり小森の問題意識は〈舞踊〉或いは〈身体〉という枠を脱し、どうやら舞踊を介した〈芸術的創造性〉〈身体を介した精神性〉へと到ったようだ。東西舞踊の融合ではなく、東西精神の融合といったところだろうか。結果として小森→藤井へと〈舞踊の楽しさ・喜び〉が受け継がれた反面、良くも悪くも舞踊家としてみた場合の「小森敏」の曖昧さにも繋がったようだ。ただ、そうした小森の思想が具体的にどのようなものだったかまでは分からなかった。

小森敏とパリの日本人―近代日本舞踊の国際交流

小森敏とパリの日本人―近代日本舞踊の国際交流