落穂ひろい① 菜川作太郎の『獄門島』

 拙著『ムーラン・ルージュ新宿座――軽演劇の昭和小史』で取り上げなかった事柄の“落穂ひろい”を。
 戦後のムーラン・ルージュ、昭和23(1948)年6月の上演作品に『獄門島』四場(菜川作太郎作・演出)がある。
横溝正史の探偵小説『獄門島』が雑誌『宝石』に連載されたのは昭和22(1947)年1月号から翌年10月号までの計17回、題名の読み方も同じ「ごくもんとう」なので、ムーランの『獄門島』は横溝の金田一シリーズを舞台化したものかと一瞬思ってしまうのだが、早稲田大学演劇博物館所蔵の上演台本を読む限り全く無関係の作品だった。台本の「作者の言葉」には以下のようにある。

 この脚本は、かつて暴威を振るつた軍国主義日本の封建制の生態とその末路を諷刺し、また、その封建支配下に人間として正当に生きる権利と自由を束縛されながらも、なほかつ自由を希つた人々の人間性とを以て織りなされるメロドラマである。
 従つて、本編の舞台となつた離れ島「獄門島」は、いふまでもなく作者の架空の舞台となつたものであり、この「獄門島」こそ「封建日本」の象徴に他ならないのである。
                                           二三・六・二三日

 冒頭にナレーションによる解説が入るが、それが安易と言えば安易な手法であり、斬新と言えば斬新な手法と言えなくもない。この解説を聞けば、作品の大凡の内容と雰囲気が把握できるだろう。

この物語は、私たち文化人には、想像も遠く及ばぬ様な絶海の孤島に発展する。そこは――正確に云へば、北緯三十八度二十五分、東経百三十度の裏日本海上に位してゐる小さな群島である。その群島は、一番島、二番島といふ名称によつて八つの島に分たれてゐる。そして、この八つの島を、いつの世からか、八州一族なる豪族が代々支配をし、奴隷の様にきびしい掟を島民に守らせ、大時代な封建勢力をほしいまゝにしてゐた。たとへば……島の女が人間としてたへられぬ掟から逃がれ様と、深夜人知れず海に小舟を乗り出せば、すかさず密偵の発見するところとなり、浜辺に■きすえられてたちまち怒号罵声が浴せられる。
男「この野郎! 何が不足で島脱けなんかしやがるんでえ!」
女「おねがひです! 助けて!」
男「何をぬかしやがる! 島の掟を破りやどうなるか思ひ知らしてやる! 裸になれ! この阿魔ツ!」
女「痛い! 痛い! たすけて!」
男「いゝから山へ来い!」
  (と、二人の声遠くなる)
……こうしてこの女は、山の霊を祀る神社の前で、裸にされ無惨にも荒くれ男に笞うたれるのである。
  (島の者たちの奏でる音楽)
この島の附近を、内地の船は通らぬでもなかつたが、誰もこの島に立寄らうとはせず、いつかな人々に、獄門島と呼ばれて怖れられてゐた。
しかし……この獄門島の封建勢力にも、ついに終止符を打つ時が来た! それは昭和二十二年の夏のことであつた。

 この冒頭の解説で、結末までの展開がすっかり語られてしまった。
 舞台となる「獄門島」は日本海にある群島の一つで、八州番左ヱ門という首領の下、前時代的な封建社会が営まれていた。番左ヱ門は権力を盾に島民に無理難題を押しつけ、女を自由にし、島民が島を脱することを固く禁じていた。しかしやがて反乱を起こした島民が島に火を放ち、この封建社会も崩壊するのだった……と、いった内容。
 それなりにスケールの大きな話で、戦後のムーランらしく、笑いを排した真面目な芝居なのだが、実のところ物語の展開が安直で作品の完成度はあまり高くない。また本来ならかなり視覚的にも楽しめただろう前近代的な獄門島の雰囲気が、ムーランの狭い舞台と簡素な舞台装置だけで果たしてどの程度表現できたか等々不安材料も少なくない。
 引用した冒頭部分と中盤に島抜けしようとした女が拷問にあう場面があるが、これは過激なリンチ描写とエロチシズムで人気のあった空気座『肉体の門』を意識したものだろう。
 ムーランをはじめとする軽演劇の舞台では、客寄せの手段として話題の映画や小説から題名だけを拝借し、内容は全く無関係ということが当たり前だったので、この『獄門島』もそうした作品の一つだったようだ。